ネクタイの歴史を少し詳しくまとめてみました。
なぜか常に政治と戦争と共に伝わる胸元の装飾品=ネクタイを辿ると、フランスで原型が誕生、革新的な英国紳士の価値観が世界中に拡大、そしてアメリカで完成した商品化など、ネクタイ史だけに収まらない、メンズファッション全体の進化が垣間見えます。
紀元前210年 秦
これまでに確認されているネクタイ、というよりネクタイに近い「首まわりの装飾品」の最も古い記録は、中国の驪山(りざん)にある秦の始皇帝の墓「秦始皇帝陵」、その近くに埋められた8,000体もの兵馬俑(へいばよう)に見ることができる。
始皇帝時代の俑
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兵馬俑とは読んで字の如く兵士や馬の俑(人形の焼き物)のことで、考古学における20世紀最大の発見のひとつといわれている。注目すべきはその首に巻かれた装飾品。これらは秦の始皇帝が亡くなった紀元前210年あたりにつくられた俑だと考えられ、この時代の正装だったのかはわからないが、このような装飾品を男性が着けていたのは間違いないだろう。不思議なことに、これ以降の絵画や文献含め中国におけるすべての膨大な記録に、このような「首まわりの装飾品」は全くでてこない。
101〜106年 イタリア
ときのローマ皇帝トラヤヌスが、ダキヤ戦争に勝利したことを記念して建てられたトラヤヌス記念柱。
トラヤヌス記念柱に描かれた兵士
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イタリア・ローマの観光地として現存する高さ30メートルのこの円柱には、ローマ軍とダキア軍との交戦を中心に、皇帝や兵士、政治家など計2,500人もの人物が描かれているため、考古学的にも非常に重要な建築物として知られている。ここでは首に布を巻いた人々が多く描かれ、中には現在のネクタイのような結び方をしている人も見てとれるため、これがネクタイの原型であるかのように扱われることもある。しかし、古代ローマ人にとってのそれは装飾品ではなく、兵士が防寒用として仕方なく巻いていたとの見方が強いため、ネクタイの歴史に加えるべきかは疑問が残る。
1618〜1648年 フランス
現在のネクタイに直接繋がる、クラヴァットの誕生である。30年戦争と呼ばれるこの時代、フランスの王ルイ13世が組織したクロアチア人の騎兵隊兵士達が首に巻いていた布を、フランス人兵士が真似たことからフランス全土に広がったといわれている。
ルイ13世
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クラヴァットの語源はクロアチア人(フランス語でクロアト)に由来するといわれているが、「ネクタイの数学 – トマス・フィンク ヨン・マオ著」によると、事実と異なるらしい。クラヴァットという言葉は、14世紀のフランスや16世紀のイタリアですでに使われていたのである。フランスの詩人ユスターシュ・デシャン(1304~1407年頃)の作品にも「クラヴァットを固く結ぶ」という表現がみえる。ということは、この有名なクラヴァット=クロアチア人の通説は覆されることになるが、現在でもフランス語でネクタイはクラヴァットと発音されるわけで、「ネクタイの原型はフランスで装飾品として広まったクラヴァット」であることは間違いなさそうである。
1660年 イギリス
激動の時代に生まれたイングランドの国王チャールズ2世は、亡命を余儀なくされヨーロッパ中を移り住んだ。当時すでにクラヴァットが流行していたフランスで9年間過ごしたのち、王政復古を実現するためロンドンに戻った1660年、チャールズ2世をきっかけにクラヴァットはイングランド、当時植民地であったアメリカへと伝わったといわれている。そして17世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパ中にクラヴァットという装飾品が広まったのである。
チャールズ2世
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1800年 イギリス
19世紀に入ると、これまで華やかさを競っていた男性ファッションを根底から覆す、「ダンディズム」という全く新しい価値観が生まれる。その先頭を走っていたのがジョージ・ブライアン・ブランメル(1778~1840年)、通称、伊達男(ボー)ブランメル。「街を歩いている君をだれかが振り返ったとしたら、君の服装は失敗だ」と語ったと言われる彼のスタイルは、これまで主流であった過剰な装いを否定し、シンプルと清潔感を追求した、一見地味ともとれるものであった。しかし、そのセンスに当時の英国皇太子までも注目し、上流階級の生まれでなかったブランメルの名はイギリスのみならずヨーロッパ中に轟くことになる。現代にも通じる、英国紳士のファッション性の礎をこの時代に築いたのである。
ジョージ・ブライアン・ブランメル
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それに伴い、装飾品であるクラヴァットが衰退していったかというと、そうではない。控えめであることが良しとされた英国紳士達にとってクラヴァットだけが唯一の見せ所となり、男性のファッションにおいて胸元の重要性が確立され、それによって多種多様な結び方が生まれることになった。
1837〜1901年 イギリス
イギリスが栄華を極めたヴィクトリア朝時代、人々はより実用的な胸元の装飾品を求めていた。サイズは大きく形が崩れやすいクラヴァットは労働に適しているとはいえず、さらに前述のブランメルはクラヴァットを結ぶのに毎日2時間かけていたといわれていた。結果、クラヴァットはフォアインハンド・タイ(現在のネクタイ)、蝶ネクタイ、アスコットタイの3種に分岐し、徐々にフォアインハンド・タイが主流になっていく。
前述の「ネクタイの数学」によると、フォアインハンド・タイが急速に普及した理由の一つは、19世紀末にかけて固い立ち襟が姿を消し、ソフトな折り返し襟が好まれるようになったことである。立ち襟にはボウタイやスコットタイがよく似合うが、折り返し襟の開きにはフォアインハンドがぴったりと収まった。
1863年のMAISON DU PHENIXの広告
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1926年 アメリカ
イギリスを中心に大流行したフォアインハンド・タイだが、重大な欠点があった。当時、大きな布を折りたたんだだけのものもあり、とにかく結びづらく、また結んでもすぐに解けてしまうのだ。ヴィクトリア朝時代にネクタイをとめるクリップやピンが多く売り出されていたのもそのためである。
1890年頃の写真
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その問題を解決したのが、ニューヨークのネクタイ・メーカーであったジェシー・ラングスドルフだった。彼は生地をバイアス(斜め45度)にとり、大剣、小剣、中つぎという3つのパーツに分けて裁断、縫製した。バイアスにとることで生地に伸縮性を持たせることができ、格段に結びやすくなり、3つのパーツに分けることで生地を無駄なく使えるこの製法は世界中に広まり、現在も変わらない画期的な発明である。
1930年頃の写真
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これによって長く美しいネクタイがつくれるようになったからなのか、ベストの流行が下火になったからなのか、現在のネクタイはベルト位置まで伸びている。ちなみにベストを着ることが主流だった時代は、ネクタイの剣先が隠れてしまうため短くても問題なかったのだ。
まとめ
ネクタイの定義を「男性の胸元の装飾品」とすると、紀元前の秦まで遡ることになります。ヨーロッパの印象が強いネクタイですが、中国文化の奥深さを感じますね。
現在のネクタイの原型であるクラヴァットはフランスで生まれ、戦争と政治を通じてイギリスに渡りました。華やかな自由なレディースファッションと違い、シンプルでフォーマルを基調としたメンズファッション。さりげないことこそ男性の装いであるというファッション観は、産業革命で富を得、歴史上最も栄華を極めたといわれるあの時代のイギリスだけが生み出せたのかもしれません。
そして、いまのネクタイ縫製を完成させたのがヨーロッパではなくアメリカだったということが、21世紀の現在を象徴している、とまでいうと飛躍しすぎでしょうか。
過去400年から500年、「男性の胸元の装飾品」は絶えず進化してきました。現在のネクタイもその途中であることは間違いありません。
ネクタイ専門店TUNDRA(ツンドラ)が投稿いたしました。